ロバート・アルトマンの映画

 アルトマンの映画は独特の感じがあって、『ナッシュビル』なども映画館でもみているのだけど、群像劇なので物語り・ストーリーは最初つかみにくいのだけど、映像が物語の説明ではなく
単独の映像として撮っているので、はしばしに事実が映画に写っているのが面白い。かといって物語が分裂することもなく、最後にはつながるのですごい。


 

多木浩二 『眼の隠喩 〜視線の現象学 』 を読む。

 
 何年か前に古本屋で買ったものの、本棚に置きっぱでなかなか読もうとは思っても実際手が伸びなかった本なのですが、読んで見ると大変面白い。今まで読んだ写真論関係の中では群を抜いて面白かったです。人間の視線が文化に入り込んでいく歴史を、絵画、家具のカタログ、写真、建築、政治など多ジャンルにわたり書かれています。最終章「メトロポリスの神話学」から以下引用します。

 

 たしかに近代世界は、資本主義杜会、杜会主義杜会、そしてファシズムの社会という、政治的にも文化的にも異なる三つのタィプの杜会をうみだしてきた。これらはイデオロギーとして対立しあい、その対立は二十世紀を戦争で埋めつくす原因にもなってきた。だがそれらは大衆の杜会であるという点では同じであり、大衆をなんらかの象徴で統合する神話を用いていることでも同様である。その点ではこれらの世界はきわめてよく似ている。そのことは政治が近代においても、こうした神話的宇宙論的構造とどこかで絡みあってはじめて成り立ってきたことを示している。この神話機械、つまり象徴を部品とした非日常化の仕組みは、たんに都市の大衆のエンターテイメントにあらわれる程度のものでは終わらない。たとえばナチス・ドイツの政治的な神話機械ではその民族の神話を成り立たせる上で、「犠牲者」がいやおうなく不可欠なものとして位置づいている。ユダヤ人を実際に殺すことが、アーリヤ人の血を浄める儀式として必要であった。しかしこの儀式的陰惨さはナチス・ドイツだけの異常ではなかったのである。ソルジェニーツインンの作品は、ソ連が夥しい強制収容所によって成り立ってい国家であることを明らかにした。それは信じがたいほど腐敗した、しかし確実に神話的な世界だった。そこでは「革命の敵」をつくりあげ、それを排除することが儀礼的な意味をおびていたのである。自ら排除の親玉であったベリヤ自身が排除された経緯について、フルッチョフの回想録には、中央委員会の席上でみんながとびかかって締め殺したと記されている。真偽のほどは判断しにくいが、ベリヤの司祭的な権力がどれほど大きかったかを物語っている。中国の場合もそうである。文革から四人組裁判までの政治劇は、単に杜会主義のイデオロギーからは理解できないものが含まれている。これらはナチス・ドイツの神話機械とどれほどちがうものだろうか。
 この同質性は、いうまでもなく、その杜会の抱く価値や理想によって生じるのではない。政治空問とはどんなタイプのものであるにせよ、ときには祝祭、ときには陰惨なものを含む可能性をもった根深いコスモロジーをもつということでの同質性なのである。それを理解しないでは、私たち自身の政治性も、現実を変えようとする努力も不毛に終るかもしれない。ファシズムがいま再び関心をよぶのも、こうした現実とコスモロジーの関係の解明への関心が次第に強くなってきたからであろう。ファシズムや杜会主義や資本主義が互いに人問の理想や価値において排除しながら結びついていた、その結びつきを解くことが、近代というものの深部をさぐることではないかというあらたな間いが、メトロポリスヘの関心の底から生じてくるのは否定できない。私たちはメトロポリスのテキストを織るふたつの視線を見出してきた。ひとつはメトロポリスを機能的な枠に収まり切れたいものとして眺めうる弾力的な視線である。そこから私たちの現実は機能世界とそこに埋めこまれた神話機械の両方にかかわって生きていることが理解できる。もうひとつはマレヴイツチを例として見た美的機能の視線である。後者については、私がいまかれの芸術形式に格別の共感をもつからではなく、反杜会性、極端な精神主義、意味の零度化とみなされたものが実はその時代の硬直性への挑発であったという矛盾した構造の示唆するものに興味を抱いたからであった。この視線からいま私たちが引出しうるものは、消費杜会を含めた政治的世界からも利用しうる神話機械を、人問を「人問化」するトポス(場)に変容させる批評と想像力の役割である。もし都市の記号論がありうるとすれぼ、これらの役割を担う以外のものではなかろう。

ベトナム戦争を描いた映画 再読  『フルメタル ジャケット』 と『ディアー ハンター』

 少し前にBSの番組でオリバーストーンが監督したアメリカのテレビ番組
ドキュメンタリー『シリーズ オリバー・ ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』
ベトナム戦争時代編を見た。それで、もう一度ベトナム戦争ものの映画を見返そうと
思い今回は『フルメタル ジャケット』と『ディアー ハンター』を見た。
 小学生の時に見てトラウマになった映画で、今回もう一度見てみて両方とも強烈な
印象を受けた。二本とも構成は二部に分かれていて前半はアメリカ国内が舞台で
後半ベトナムの戦場が舞台になる。アメリカ国内だろうがベトナムの戦場だろうが、
狂っているのは同じで、映画・文化の中に狂気がでてくるが現実にベトナム戦争はあった
のだから。現代史とは狂気とともにあり、それを直視しない人間がほとんどだった。それは文化の中の狂気だろうが現実の狂気だろうが直視するのを人は嫌う。




 

カフカ 『城』  〜小説と方法〜

 もともと活字を読むのが苦手で小説を読むのも遅いのですが
カフカの城はカフカの小説の中でも一番読みにくく、何回も
途中で挫折した経験があるのだけど、今回読み通した。城は別に
難しい単語や話・文体が出てくるわけではないのだけど、分からなくなる。
 ベケットも分かりにくく、読みやすくはないが面白さは掴める。
今回は分からなくなっっても、無視して字を読んでいった。
 京都の寺で先日トークショウをされた小説家の保坂和志さんも学生の時初めて『城』
を読んだとき分からなくて、すぐ三回読み直したとおっしゃってた。小説家は精神力が
強い。その時にでた『城』についての面白い批評、ウェブ『松岡正剛の千夜千冊』を下に
引用します。


 




松岡正剛の千夜千冊』



労働災害保険協会。これがカフカが死ぬ2年前まで勤めていた職場である。
フェーリッツェ・バウアー。これがカフカが2度婚約しながら2度にわたって婚約を解消した相手の女性の名前である。

 オーストリアハンガリー二重帝国。
 これがカフカが生まれたプラハを支配していた帝国の名である。そこは多数のチェコ人を少数のドイツ人が支配し、カフカがその血をうけついでいたユダヤ人は、その二重構造から截然とはずされていた。
 カフカはその二重帝国のシンボルのひとつであるプラハ大学で化学とドイツ語を学んでいながらも、結局は法律学を専攻する。
 けれどもカフカ法律学も生かせなかった。ふらふらと労働災害保険協会に入る。半官半民の中途半端な組織だったようだ。そこでもてあました時間に文学作品を書きはじめ、『アメリカ』や『変身』を仕上げる。目がさめてみたら甲虫になっていたグレゴール・ザムザの登場である。

 第一次世界大戦が始まると、その渦中で、ヨーゼフ・Kの身におこった不条理をとりあげた『審判』や『流刑地にて』を書いた。
 そのころもカフカはまだ女性に恵まれないが、そのうちやっと一人の夫人にめぐりあう。ミレナ・イェシェンスカ・ポラク夫人。
 この夫人はカフカの作品のチェコ語への翻訳をひきうけた女性で、ストイックで事務的な文通からはじまった関係だった。なんだか実感がない関係である。この、カフカ研究者がいうところの、いわゆる“ミレナ時代”に書き継いだのが、問題の『城』である。けれども、『アメリカ』『審判』同様に、なぜかこの作品も未完になっている。

 カフカの長編を読んでいたころ、ぼくはしょっちゅう別役実に会っていた。
 二人で碁を打ち、そのあと雑談をする。病気にかかるということのおもしろさ、人が人を待っているときにアタマの中で去来していること、事件はどこから事件なのか、「じれったい」はどこからじれったさがはじまっているのか、まあ、そんな話である。
 ちょっと話しては大笑いし、また話す。ぼくはそういう話題を「存在待機命題」とよんでいた。しかし、こんな話題では、たちまち雑談はカフカベケットの話につながっていく。
 別役実カフカの短編が気にいっているようだった。ぼくは短編のほうは高校時代や大学に入ってすぐに読みおえていたので、そのころは『アメリカ』『審判』と読んできて、ちょうど『城』にさしかかっていた。
 『城』のことをおもうと、別役実の咥え煙草が浮かんでくるのは、そういう事情なのだろう。

 『城』の主人公は測量技師のKである。
 Kは、ある城の伯爵に測量のために招かれたはずなのだが、その霧深い村だか町だかに訪れたそのときから、いっこうに城のありかがわからない。
 城はすぐ近くにあるのに、まことに遠い。
 この、なかなか近づけない城というイメージは、読者をすぐさま神の畏怖のメタファーに連れこむが、そのわりには「存在待機」が長すぎる。話はだらだらと「村」の中でつづきあい、筋とは関係のなさそうなエピソードも無縁仏のように入ってくる。
 城に招かれながら、城にたどりつけないK。
 そこには「場所」というものと、「存在」というものを、それぞれ根本で問う構造がある。
 ところが、カフカの『城』は、その構造をすら描かない。そこは、構造が描けない場所であり、そこにいるKは構造を問えない存在なのである。
 これはまさしくカフカが生まれた国のようであり、カフカがうけついだ血のようであり、カフカが就職した労働災害保険協会のようである。

 それにしてもだらだらした話なのである。
 別役実と「じれったい」はどこからはじまるかという雑談をしていながら、いったいカフカはそれをどこでつくりあげたのか、その判定すらできなくなっていた。
 そうなると、かつてボルヘスが「カフカは中間部が欠落した作家だ」と言っていたことが、「王様は裸だ」という意味だったのかとおもえたりもする。
 ボルヘスがそのように言ったのは、たしか『カフカの先駆者たち』といったようなエッセイの中でのことだった。運動する物体と矢とアキレウスが、文学におけるカフカ的登場人物だということを指摘したうえで、カフカが中間部においておびただしい欠落をもっていることに言及していたのだったかとおもう。
 ボルヘスは、これではカフカの物語は必ず未完におわると決めつけた。障害性が物語のプロットをつくるはずなのに、その障害性そのものが作品の本質であるとすれば、その物語はつねに未完でなければならないからだ。

 ともかくも、そんなことをあれこれ合間に考えたくなるほど、物語の中の城はいっこうにあらわれない。そういう物語なのである。
 Kもそのことで狂うということもなく、怒るということもない。不条理が不条理に昇華しない。そこはのちのカミュでもなく、ましてボルヘスでもなく、マルグリット・デュラスでもない。

 こうして、何もおこることもなく、『城』は終わってしまう。未完とはいえ、文庫本でも552ページである。読後にはなにも残らない。
 しかし、それがフランツ・カフカなのである。そう考えたとたん、カフカの作品を“発見”した文学界と思想界は大騒ぎになったのだ。カフカはいくつかの短編を除いて、長編をふくむすべての作品を燃やしてしまうように遺言して死んだのだが、友人のマックス・ブロートがそれを残したための大騒ぎである。戦後のカフカ・ブームはそうしておこったものだった。
 しかし、大騒ぎをしたところで、物語はなにも語らない。おまけにカフカはそのことについて説明もしなかった。そこにはただ、「届かないこと」「伝わらなかったこと」、そして「はじめからなかったかもしれなかったこと」だけが、ある。

 が、そのことが衝撃だったのである。
 そのように「文学」や「作品」をつかうことがなかったためだった。それはロレンス・スターンもおもいつかなかったことで、そしてアンディ・ウォーホルが真似したことだった。
 カフカが『城』で何をしたかといえば、「方法」を残したのである。




S

映画の現在   :カラックス監督 『ホーリー・モーターズ』と 黒沢清監督『リアル〜完全なる首長竜の日〜』

 東京で映画の日に映画館に行くと満員かチケット買えないとか
なので行かない事にしていたけど滋賀のシネコン映画の日
行ってもがらがらで見れて、1000円なので1日は暇なら映画を見に
行くことにしている。今月は大津のパルコの上にあるシネコン
クロネンヴァーグの「コズモポリス」を見に行ったが、短期上映で
昨日で終わりだったので、せっかく来たので違うの見よと、上映してるの
見たら黒沢清の新作がやっていたのでそれを見た。若松浩二監督の原作
中上健次の映画と迷ったが、昔の白黒時代の若松監督の映画は面白いな
と思うのだが、最近作の何本かは見たがあまり面白くなかったと思い
黒沢清監督の新作にした。
 今、中原昌也が新潮芸術で連載・映画の採点表みいたいなのやっていて
カラックスの新作とクロネヴァーグの新作が似ていると書いていたので、カラックス
の新作に確か90点くらいつけていたので、カラックス監督 『ホーリー
モーターズ』は13年ぶりのカラックス長編新作で友達のkさんが好きな
なので是非ともと見た。映画のロビーにカラックスのインタビュー記事が置いて
あったので読んだ。デジタル映像映画時代をカラックスが否定的になんか
言っていた。中原昌也が書いていたとおり、軽薄で白昼夢的な北野武
『TAKESI,S』を思わせる感じだった。ハーモニー・コリンの新作
も共通するところがあると中原昌也が書いていた。『ホーリー・モーターズ』は
そんな軽い、軽薄な感じでプロットの一つに広告写真をモデルと写真家が野外で撮影
している場面があるんだけど、映画全編を通して女性誌の海外ブランドの広告を見せ
られてるそんな感じでした。黒沢清の新作にも、軽薄、軽さや、ヴァーチャル感
が漂っていた。デジタル映像だと撮影の後で映像の調子を変えられるので、
監督によって全体のコントラストを強くする人と、デジタルならでわの、
粒子感や光の感じのない表情がない映像がカラックスと黒沢のデジタル映像の
感じだった。フィルム時代の両監督はフィルムの性質をうまく使った監督という
イメージだったが、そういう人のほうがデジタルの性質に特化していくのだろうか。





フォイル ギャラリー(京都)  劉霞(リュウカ) 写真展「沈黙の力」

 出版社・ギャラリーのFOILが去年、東京から京都へ移転されて、そこで今
劉霞(リュウカ) 写真展「沈黙の力」を開催されているので見に行きました。またこの
展示の写真集も出版・販売されてました。
 作家の劉霞(リュウカ)は2010年にノーベル平和賞を受賞し2008年に民主的立憲政治を
求める零八憲章を起草して拘束され、懲役刑の判決を受け服役中の劉暁波(リュウギョウハ)
の妻です。劉霞も今現在、中国で中国政府から不当な自宅軟禁を強いられています。
 だから中国での展示はできないですし、外部と作家と連絡を取ることも難しいそうです。
海外では何回か展示されたそうです。そういう状況なので作品展示自体はどこまで作家のセレクト
の意思などが反映されているかは分からないですが、ロー・アートの写真とハイ・アートの写真の
両方があるように思いました。



http://www.foiltokyo.com/gallery/upcoming.html
 


大阪にあるギャラリー『Port Gallery T』から出版された冊子『映像試論100』

 『Port Gallery T』は2007年に開業された写真中心の企画と貸しのギャラリー
で、企画では金村修さん、潮田登久子さん、島尾伸三さんなどが個展されています。
オーナーは、天野多佳子さん。旦那様も大阪を拠点に活動せれている写真家
の天野憲一さんで、今年の一月にここで個展されていて、その時僕も見に行きました。
 ギャラリーはJR大阪駅から地下鉄で一駅くらいのところにあり、大きくは
ないですが、上品なギャラリーです。
 今回はこのギャラリーから本・冊子が出版されて、そのパーティがギャラリーで
先日あったのでいってきました。本はタイトル『映像試論100』で写真家や批評家の方が
エッセイなどを各自のテーマで書いています。その中の島尾伸三さんの
【自主ギャラリー誕生の外的要因と純粋写真/試論】が面白かったです。今日、写真や映像は
メディアに溢れてますが、写真・映像についての言葉や文章はあまりないので面白い企画だと
思います。このような少数派の活動に真実や面白さがあると思います。何ヶ月後かに第2号が
でるとのことなので楽しみです。ギャラリーには写真も展示してあって潮田登久子の『冷蔵庫』
シリーズのプリントが何点か展示してあり、大変すばらしかったです。 

 http://www.portgalleryt.com/about.html