多木浩二 『眼の隠喩 〜視線の現象学 』 を読む。

 
 何年か前に古本屋で買ったものの、本棚に置きっぱでなかなか読もうとは思っても実際手が伸びなかった本なのですが、読んで見ると大変面白い。今まで読んだ写真論関係の中では群を抜いて面白かったです。人間の視線が文化に入り込んでいく歴史を、絵画、家具のカタログ、写真、建築、政治など多ジャンルにわたり書かれています。最終章「メトロポリスの神話学」から以下引用します。

 

 たしかに近代世界は、資本主義杜会、杜会主義杜会、そしてファシズムの社会という、政治的にも文化的にも異なる三つのタィプの杜会をうみだしてきた。これらはイデオロギーとして対立しあい、その対立は二十世紀を戦争で埋めつくす原因にもなってきた。だがそれらは大衆の杜会であるという点では同じであり、大衆をなんらかの象徴で統合する神話を用いていることでも同様である。その点ではこれらの世界はきわめてよく似ている。そのことは政治が近代においても、こうした神話的宇宙論的構造とどこかで絡みあってはじめて成り立ってきたことを示している。この神話機械、つまり象徴を部品とした非日常化の仕組みは、たんに都市の大衆のエンターテイメントにあらわれる程度のものでは終わらない。たとえばナチス・ドイツの政治的な神話機械ではその民族の神話を成り立たせる上で、「犠牲者」がいやおうなく不可欠なものとして位置づいている。ユダヤ人を実際に殺すことが、アーリヤ人の血を浄める儀式として必要であった。しかしこの儀式的陰惨さはナチス・ドイツだけの異常ではなかったのである。ソルジェニーツインンの作品は、ソ連が夥しい強制収容所によって成り立ってい国家であることを明らかにした。それは信じがたいほど腐敗した、しかし確実に神話的な世界だった。そこでは「革命の敵」をつくりあげ、それを排除することが儀礼的な意味をおびていたのである。自ら排除の親玉であったベリヤ自身が排除された経緯について、フルッチョフの回想録には、中央委員会の席上でみんながとびかかって締め殺したと記されている。真偽のほどは判断しにくいが、ベリヤの司祭的な権力がどれほど大きかったかを物語っている。中国の場合もそうである。文革から四人組裁判までの政治劇は、単に杜会主義のイデオロギーからは理解できないものが含まれている。これらはナチス・ドイツの神話機械とどれほどちがうものだろうか。
 この同質性は、いうまでもなく、その杜会の抱く価値や理想によって生じるのではない。政治空問とはどんなタイプのものであるにせよ、ときには祝祭、ときには陰惨なものを含む可能性をもった根深いコスモロジーをもつということでの同質性なのである。それを理解しないでは、私たち自身の政治性も、現実を変えようとする努力も不毛に終るかもしれない。ファシズムがいま再び関心をよぶのも、こうした現実とコスモロジーの関係の解明への関心が次第に強くなってきたからであろう。ファシズムや杜会主義や資本主義が互いに人問の理想や価値において排除しながら結びついていた、その結びつきを解くことが、近代というものの深部をさぐることではないかというあらたな間いが、メトロポリスヘの関心の底から生じてくるのは否定できない。私たちはメトロポリスのテキストを織るふたつの視線を見出してきた。ひとつはメトロポリスを機能的な枠に収まり切れたいものとして眺めうる弾力的な視線である。そこから私たちの現実は機能世界とそこに埋めこまれた神話機械の両方にかかわって生きていることが理解できる。もうひとつはマレヴイツチを例として見た美的機能の視線である。後者については、私がいまかれの芸術形式に格別の共感をもつからではなく、反杜会性、極端な精神主義、意味の零度化とみなされたものが実はその時代の硬直性への挑発であったという矛盾した構造の示唆するものに興味を抱いたからであった。この視線からいま私たちが引出しうるものは、消費杜会を含めた政治的世界からも利用しうる神話機械を、人問を「人問化」するトポス(場)に変容させる批評と想像力の役割である。もし都市の記号論がありうるとすれぼ、これらの役割を担う以外のものではなかろう。